第3章から

p79
今までは都市計画というお仕事も、芸術家のお仕事も、専門家でもない市民=享受者は、出来上がったときにだけ見れた。で、よかった!と感動したり、自分には合わない、と不満に思ったりした。
そこで都市行政では意思形成への参加やプロセスの公開の手法の一つとして、ワークショップが要求されてきているし、文化ホールの設計にも不十分ながらこの手法が見られている。

p100
(広告代理店などが使う「発信」という言葉について)
例えば京都だけで自己満足的に発表するのはなく、他地域(海外)まで価値を認められる活動が大切だという文脈で使われる。

 孤立無援だと思っていた私に、一橋大学佐藤郁哉教授が「文化の発信」についてその誤謬を明確に指摘してくれた(『現代演劇のフィールドワーク』東京大学出版館、一九九九年)。
それによると……発信ということばは元来郵便や通信の用語であり、離れた同士のやりとりを指す。文化のような直接的で密度の高い交流を前提とする活動には馴染まない。ところが、近代日本は欧米文化の(遠くにいる)受信者として存在した。それではいけない、なんとか「発信」してなくちゃと日本や地方が今度は「文化的強者」になろうと、こんな不可思議なことばが流行るようになった……と言うわけだ。

いま神戸でも震災から10年というこの年に「神戸からの発信」というテーマで色々行われているみたいだ。その中での催しでメリケンパークで「タイムズメリケン」というものがやっている。時間がなくて行けていないが。
この本では京都を中心、ダンスを中心に語られているが、私は神戸を中心に、美術を中心に調べていきたいなと思っている。

p101,102
井伏鱒二が「引札」という随筆のなかでいっている。引札とは江戸時代からあるチラシのことで、有名なコピーライターとしては平賀源内や山東京伝などがいる。イラストは多色刷りの美しい錦絵だだったから「広告絵」として庶民の家のかべにはられ鑑賞されていたらしい。
チラシを研究しようと思っている。
それがどのように作られ配布され、潜在的なダンス鑑賞者に届き活かされているかという過程が興味の対照である。

ローカルな催しのチラシはなんかローカルさが滲み出ていて「ダサイ」なと思う事がある。私はやっぱり神戸が好きだから神戸で行われることならもっと魅力あるものにして欲しいと願う。神戸の魅力を伝える「手段」として「アーツ」を使うのはよくないということはこの本を読むと思うが。そのへんのことも研究していきたいなぁ。